秘密結社の当主は、優雅に次のナイフとフォークを手にした。香ばしい香り。メインディッシュだ。
長いテーブルで数メートル隔てた対面には、料理人が、尊大に腰かけている。
味の満足など、訊ねるに及ばず。当然クリアできていると確信している態度。
そんな料理人が、薄闇の落ちたディナーの席で、当主にもたらそうとしたものは、まだ判然としない。
食事に、味以外の情報なんて、果たしてあるのだろうか。当主は対面の影に視線を送り、彼我を隔てる昏さに、質問をやめた。
ナイフをすべらせると、それはステーキのこんがりした表面を裂いて、厚みのある奥に達する。テーブルマナーにあるまじき、カトラリーと皿の触れあう鋭い音がした。
それほどに、饗された肉は柔らかだった。
ナイフを手前に引く。バラ色の肉汁がゆるゆると溢れた。口に入れ、そっと歯を沈めると、瞬く間に滋味が全身を貫く。味覚に加えられた一撃が、甘く脳髄を陶酔させた。名残を惜しむように飲み込んだ後、野趣が鼻腔を掠める。
けして食べやすいだけでない。飼い慣らされていない肉。それを残す料理の技巧。胃が、もっとを叫ぶ。腹の中でステーキは、己で臓腑を埋め尽くそうと意思を持つ。
手が止まらない……。当主は殆ど食べ終わる頃に我に返る。そして貴族にあるまじき、あからさまな欲望をいなすために、口を別のことに使おうとした。つまり口火を切った。
「美味しいわ。料理ができるなんて、識らなかった」
§2
それが、最初の会話になった。
「素材がいいのだろう」「褒めたんだから、素直に喜びなさい」「いや。本当に、素材のおかげだよ」
金無垢の料理人は不思議な間を置いた。
「血が近いほど肉は美味なのだ」
カチン。
また、ナイフが皿にぶつかる音。その後、小刻みなカタカタという音が暫く続いた。
手の震えが、ナイフの刃先にまで届いている。押さえがたいそれは、もはや当主の全身を支配していた。
理解が、これまでの認識を一掃した。
充実した食事をさっきまで取っていた。もうその現実は、存在しない。
前菜。野菜と腸詰めのグリル。気持ちよく歯の間で弾ける表皮は、粗く挽いた肉を隠し、また見つけさせる。
スープ。骨髄を煮込んで、香草で香り付け。浮き実は無しのシンプルな一皿が、体温を高揚させた。次々に眠っていた味蕾が目覚め、鋭くなった感覚が期待し始める。
パテ。肝臓を旨みを残したまま血抜きして、絹のように細やかにホイップしたクリームと合わせたもの。温かいパンをちぎり表面に載せると、パテは小麦の肌理の中に逃げ込もうとする。半ばそれを許したところで、もうひとさじ追加し、一口。絶妙な苦みが、甘い脂の存在感を肯定する。パンのおかげで余韻は長く残り、かすかに洋酒の風味がした。
§3
記憶を反芻する間、当主の食事の手は止まっていた。小さく残った肉だけが、ゆっくり冷めて固まっていく。
肉の主の生き物としての死の次に、食事としての終末があった。あるいは、味わい終わった情報の残滓。
当主の意識が皿の上から遊離する間も、料理人の両眼は、観察を続けている。仕掛けた陥穽に、相手が落ち込むさまを。
「……メインディッシュはもう充分かな。では、デザートを」その言葉を契機として、当主は腰を浮かし、身を折った。
「今更吐いたって」料理人は、気分を害するでもなく笑う。
「何、これ」
当主の躰の中で唾液や胃液と混じり合ったもの。それは豪奢な絨毯に染みを作る。
「見ての通りだ。次が何かと言ったら……。
ありがとう」
料理人は、給仕のメイドに礼を言う。
運ばれてきたのは、背の高いガラス容器に、飾られたひとすくいのデザート。甘い香りがするコレステロールの塊。
口溶けがいいように桃の果汁で緩めて、雪の中で冷やした。とろとろの脳。
当主は這いずるように席に戻った。そこに在るのは誇りではない。餓鬼道に堕ちた欲望。食欲ではない。情報への渇えだ。当主はなんとか指を制御して、スプーンを持ち上げた。
美しい半球に整えられたピンクのババロアを、ぐちゃぐちゃに崩す。添えられたベリーが赤黒い血を流す。
当主は容器の縁に唇をつけて、全てを喉の奥に流し込んだ。70mlほどのどろっとした液を飲み下す間、小さな唇は苦しげに震え、青ざめさえした。それは賞味する喜びを拒否するための、破壊であり暴力だった。
頤《おとがい》を下げる。口の端を辿る名残を、三角の舌先が、逃すまいと舐めとった。
§4
「……未来にたかるハエね」次に唇を割ったのは、嘔吐ではなく皮肉だ。
「ハエの手作りの料理はいかがかな」怒るでもなく、尊大な料理人は暇な間に作り上げた、ナプキンで折った鳥の両翼を動かして遊んでいた。
「言い直す。未来にたかる、料理上手のハエ。これから永遠にあなたは私から離れないんだわ」
解っている。相手が離さないのではない。当主自身が離さないのだ。つきまとう黒い記憶を。
料理人が指を回した。それだけで、鳥はするりと解けて、ただの布に戻った。
「一人の完全なる消失。ご満足いただけただろうか」
言葉の終わりを待たず、当主の手が、テーブルに叩きつけられた。
皿が撥ね、グラスが倒れる。激情を代弁するように、卓上のろうそくの炎が、当主から料理人に向けてたなびいた。複数の光の矛先を受けても、照らされることのない闇。白金髪に縁取られた顔貌は、表情を閉ざす。
ただ金無垢の双眸だけが炯々としている。
「身体の中で生き続ける。そんなことを気にすることはない。
君の免疫系は、君の父上の細胞であっても他者=外敵として完膚なきまでに消し去る。
それで識るといい。
あの男は。どれだけ近くても君とは”他人”だよ。躰はもう識っている。
証明できたね」
メイドはテーブルの惨状を手際よく処理した。新しいグラスに炭酸を注ぐと、泡がむつみ合いながら水面を目指す。すぐに金色の液体の表面が白く濁り、シュッと音を立てて湧いた。
その一瞬に金無垢の輝く影は消えた。
いや、最初から存在しなかったのだ。
当主は、化け物が作るだけ作って、放置した料理と対話した。舌の上に載せて、味わうことはコミュニケートだ。本を読み、作者と対話するのに近い。
一方的で時に誤解を含むが、そこに記された情報を吟味することはできる。
だから、当主は夕食のコースの終わりまで中座しなかった。メインディッシュの最中に、材料が父であることを悟った後であっても。
鍛冶が目を焼かれながら、炎を見極めることを止めない。それと同じ行為だ。
目を閉じるのは、自己の思想と、相手の理想に対する背信となる。
――これから永遠にあなたは私から離れないんだわ
そして永遠が始まった。