いまくじらのあしおとがした
水面
失ったものを取り戻す物語
それは存在しない
だから僕の手は水面へ届く
はずもなかった
思考を積み上げた果てに敗北を喫する
そう、運命に抗い誰一人欠けずに戻ってこよう
なんて安易な虚構だった
現実はただ落ちていくだけ
あと僅かでいい
脳を研ぎ澄ませ、だが真実に辿り着くには
遅すぎた
誰かの声は
全て放棄しろと優しく囁く
その甘さで心の痛みに麻酔がかかる
出口がある問題など
ではない
それは為す術もなく終わる物語
↑ ↑ ↑
上に向かって読んでほしい
この場所から浮かび上がるように
くじらのあしおとに手が伸ばせるように
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事実と推測が混じり合って、頭の中の水が濁っている。
サイファーは助けになど来ない。
けれど僕の代わりに噛み潰された。
僕たちは浮上を試みた。
しかし天は遠く、終焉の底へ落ちて終わった。
矛盾しているのだ。
そこに見落としと誤解がある。
複雑に偽装された問題を綺麗な形に再解釈することが、魔述を破るということ。
”骨の発見以来”起きている異常を解決する必要がある。
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一瞬の停滞があった。
理解までの僅かな間に、僕たちは落下していた。
反射的に見上げた先で、真昼が円形に遠ざかっていく。
その縁取りは恐らく、僕たちが迂闊にも足を踏み入れた公園の、砂場の形をしていた。
先に我に返ったのは【御前】だった。
彼女の制服は逆さまの百合の花のように、虚空の中で開いている。
それが青白い光で鋭く縁取られた。
魔述の放射で壁際に飛ぶと、周囲に視線を配る。
対岸にいた僕も、理論武装を壁に突き刺し、そこを手がかりとした。
「マサムネ、大丈夫?」
「……。ああ」
洞の中の空気は粘性を帯びていた。
そのためか、自由落下は幾分緩やかだ。
縦穴は想像以上に深く広く、僕たちは同じくらいの高さの、離れた壁面に取りついている。
折しも奈落に滞留する風が、幼なじみの艶やかな黒髪をゆるやかに持ち上げた。
「そちらに跳ぶ。
上がりましょう」
簡潔な言葉。動揺の余韻はない。
ほんの数分前まで、僕たちは何事もない昼のただ中にいた。
微かに潮の香りが混ざった、川岸の公園。
子どもの影もなく佇むその場所に、骨を見つけるまでは。
砂場の粗い粒子が風で解かれて顕わになったのは、剥き出しの肋骨だった。
それを切っ掛けに、不自然に隆起している部分が次々に像を結んだ。
あれは頭蓋骨。大きさも形も人に似ている。
しかし、腰から下は脚の代わりに、背骨の続きがあった。
即ち、長い尾が。
魔述がはびこる世界では、異常は端緒だ。
それまでのルールが砕ける時、その中心に異常がある。
気付かなければ取り返しのつかないことになる。
だから、鋭敏は魔述師の美徳だと誰かが言っていた。
ただ、気付いたとしてそこからが問題だ。
僕たちは周囲と骨に、十分注意を払っていた。
かたまったところを纏めて攻撃できないよう距離を保ち、骨に接近した。
つまり、完全に意表をつかれたのだ。
二人が完全に砂場に足を踏み入れるのを待って、地面が消失するとは。
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目の前を、言葉が泡のように立ちのぼる。
何かが起きるたび、何かを思うたび、僕たちは落下していく。
今もそうだ。
構造から逃れることは出来ない。
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今その骨は、地下の大穴にマリンスノーのように降り注いでいる。
その遅さからも、地下に満ちている空気が重いことが裏付けられた。
そして【御前】が跳んだ。
壁面を横に2ステップしてこちらに来る軌道。
この縦穴に底は見えず、広さはテニスコートが二面、すっぽり入るくらいだろうか。
闇の奥に目を凝らしていた僕は、肌が粟立つのを感じた。
それはまず微振動、それから高圧の塊になって、1つの像を結ぶ。
穴の縁より内側に白い輪があった。それが急浮上してくる。
「【御前】!」
僕は壁に刺して自重を支えていた理論武装を消した。
そしてすぐに再召喚する。
白い輪へ向けて。
手がかりを失った僕の躰がずぶりと沈み込む。そして眼前で見た。
最下層から浮かび上がる白い輪が、巨獣の歯列であること。
幼なじみを噛み潰そうとしたそれは、僕の理論武装に鼻面を貫かれて、大きく身をくねらせた。
武器を手元に戻すのと、敵が闇に没するのと、【御前】が僕の元へ辿り着いたのは同時だった。
「ありがとう。
だけど自分で解決できたわ」
素っ気ない物言いに、微量の不満が滲む。
確かに推進力に使っていた魔述を攻撃に切り替えることは、彼女なら出来ただろう。
ただ、僕には消せない懸念があった。
歯クジラに似た敵は、それ自体が巨大な洞(うろ)だ。
魔述が内腑に届く一瞬前に、相打ちで噛み潰されるかもしれない。
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僕はまた、同じ結末に辿り着こうとしている。
眼前の世界で上昇を試みたとしても。
沈んでいく。
画面右の表示で解る。
バーは僕たちの深度を現している。
上から下へ出来事を追うこの世界で、行を逆さまに辿っていけるだろうか。
駄目だ。
意味を成さず、それは世界を、僕たちの存在と行動を壊してしまう。
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【御前】は僕の手を引いて跳んだ。
「少し困ったわ」
僕たちが先ほどまでいた壁に、黒い影が躍りかかっていた。
マッコウクジラのような歪な頭部が、魔述の余波で照らし出される。
「一撃で沈める魔述を組み立てる、暇(いとま)は与えてくれなさそうね」
奈落からせり上がってくる攻撃を避けるのに、彼女の行動は縛られる。
移動に使っている魔述が敵の攻撃より早いことは救いではあるけれど、攻勢に転じるための持ち札がないのだ。
僕の理論武装投下も、あの巨体にあっては怯ませる程度の牽制にしかならない。
接近戦をする?
ならば噛み潰しを攻略する必要があった。
そして僕は1つの提案をした。
「部分的に不満はあるけれど――」
言葉とは裏腹に、幼なじみが常に纏っている冷たい気配が和らいだ。
「できるわ、あなたなら」
この会話の間も僕たちは円の内周で、僅かに上昇する螺旋の形を描きながら回避行動をとり続けている。
上方への回避では追いつかれてしまうから、これが安定軌道。
敵の行動は単調だ――先手を取られただけ。
地の利がこちらに微笑まないだけ。
劣勢はいつものことじゃないか。
「じゃあ、手はず通りに」
僕たちは攻撃を誘発するため、移動を止めた。
そして地の底の底へ感覚を集中する。
クジラの足音を聞き、その瞬間を待ち受けるために。
やがて、闇の底が泡立つ。
【御前】は跳ばなかった。
横方向へは。
僕との間に魔述を炸裂させ、垂直移動をしたのだ。
反動推進。
質量を切り離した彼女はこれまでに無い速度で上昇した。
一方突き放された僕は、自由落下を上回る速度で落下した。
隙間無く並ぶ墓石のような歯列を僕はきわどくすり抜け、巨獣の喉奥へ侵入する。
白い歯はギロチンめいた動きでバチンと閉じ、視界は闇に閉ざされた。
この時点で作戦は成功も同然だ。
【御前】を上に逃がし、自分は敵の懐に飛び込む。
もっともこの役割を彼女は渋ったのだけど。
それでも我を通したのは、自分が危険の最前線にいたいから。
【御前】の身の安全を、確定させたいから。
理由はいろいろ存在したけれど、結局僕は確かめたかったのかもしれない。
無意識に右手を握りしめる。
掌の中で花びらのように、革手袋が萎れていた。
その光景は脳に焼き付いている。
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更に沈むことになっても、クジラへも対処しなければならない。
あの歯の威力を思うと、身震いがした。
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無意識に右手を握りしめる。
掌の中で花びらのように、革手袋が萎れていた。
その光景は脳に焼き付いている。
落下した時、サイファーが突然僕の前に現れた。
そして消えた。こちらに伸ばした手から向こう側が。
垂直に持ち上がった巨獣によって噛み砕潰された。
サイファーが手を伸ばした姿勢だったのは、僕を壁際に突き飛ばしたからだ。
噛み潰されるのは、僕のはずだった。
全ては瞬きよりも早く始まり、終わった。
【御前】の視野の外で。
嘘だろう?
手袋は、掴むと同時に形をなくした。
中身のない抜け殻。
姿が見えないときでさえ感じていた息づかいが、今はどこにもない。
白と黒の無茶苦茶な波形が脳を駆けめぐった後、僕は決めた。
【御前】だけは守らないと。
それに、誤解かも知れない。
金無垢の人外が、この世界のどこにもいないなんて。
幼なじみにすぐに打ち明けることはできなかった。
彼女の生を賭けた標的が消えたことを、この程度の敵にやられて噛み潰されたことを、どう伝えればいい。
そもそも全て、僕の誤解かもしれない。
ただ、【御前】だけは守らないと。
巨獣の腹の中は、やはりというか虚ろだった。
ピノキオの映画のように、クジラの中に家具を持ち込んで生活する誰かはいなかった。
その代わりに、呑み込んで胃酸などで攻撃する形状ではない。
このクジラは生き物の体裁を纏った、攻撃的な魔述だ。
歯列で叩き潰すのが、これのやり方なのだ。
僕は解体に取りかかることにした。
さほど困難ではないだろう。
だけどサイファーは。
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砂場の光景は、骨と化すまで永遠に水面を求め続けた存在を暗示していた。
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いまさら取り戻す方法は無い。
凶悪で横暴で謎と秘密が大好きな僕のイデア。
この世界の、どこにもいない。
何故僕は悔いているのだろう。
クジラ以上にあの人外は敵で、カタストロフを目論む純粋悪なのだ。
望むところなのではないか。
万人のための結末ではないのか。
鼻の奥の、脳に近い場所で花のような香のような匂いが蘇る。
――それでも助けてくれた。
僕たちは血を分かち合った。
僕たちは想いを探り合った。
僕たちは、笑みを交わした。
そこにどんな背景があったとしても。
忘れていた。
それでもサイファーが、非論理的な自己犠牲など、するわけない。
僕は解体しようとした手を止めた。
クジラの口から漏れた泡のような言葉を、幼なじみはどのように受け止めるだろう。
すぐに僕の攻撃が行われないことを、今彼女は訝しんでいる。はずだ。
もしかしたら、それは嘘だった。
「マサムネ、行くわ」
外で、【御前】が答えた気がした。
クジラが急浮上する。
彼女の心に不信はあるだろうか。
あるいは恐れが。
僕が兆(きざ)すのは、それだけ急激な心変わりだ。
巨獣が口を開く。
歯列の輪が、【御前】を中心に定めた。
それを内側から眺めた。まるでクジラの一部になったかのように。
幼なじみと、視線が交わる。
まだ足りない。
僕は手を伸ばして、【御前】の腕を掴み、その膚の弾力を感じながら腔内に引き込んだ。
あの時のサイファーと同じだ。
墓石を並べたような白い歯が閉じ合わされる。
【御前】は噛み潰された。
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僕は右手を自分の胸に当てた。
肋骨の中で、酸欠になった心臓が激しく脈を打つ。
ギロチンのように落ちた歯が開いたとき、【御前】の痕跡は何も残っていなかった。
それを確かめるまで、生きた心地がしなかった。
思考の果てがどれだけそれを正解だと示していても、結局僕はそれほど僕を信じられないのだ。
そして。
自らもクッションほどもある歯へと這い上る。
噛みつぶされるために。
ここに至って、水面に辿り着くための条件は揃った。
”白い奈落”に取り込まれる前の僕は、敵への先制をしていた。
疑り深い者ならではの退路を作ったのだ。
全てが縦に流れる文字列に変質したために、見逃したもの。
それをやっと思い出した。
僕は識っていた。はずだ。
本当は、クジラは足音などたてない。
異常の始まりは、骨を見つけたときではない。
”くじらのあしおと”を目にした時。
”白い奈落”は出現した。
魔述がはびこる世界では、異常は端緒だ。
それまでのルールが砕ける時、その中心に異常がある。
だから、くじらのあしおとが始まる前に行こう。